現代アートは、“リスク” の賜物です。
なぜなら、現代アートとして世に出て、人々の目に触れられている作品は、“表現のリスク” を背負っているからです。
現代アートの世界では「これまでのアートで誰も見たことがないもの」が必要とされます。
すなわち「誰も見たことがないものを世に出す」ということは、何にも “守られていない” リスクを背負った作品が世に出ているということです。
「そんな表現なんて、誰もやらないよ」
と言われるくらい、誰もやらないことをやるリスクを取らなくては、現代アートの世界でインパクトを与えることはできません。
「誰かがやっている。だからやる。」
は、安全です。
しかし、すでにその “誰か” は次の新しいステージに進んでいるわけです。
そして実は、リスクがないものを選び続けることで、 “リスク” が生じます。
行列のできる食べ物屋に行けば、“保証された美味しさ” のものは食べられるでしょう。
その分、行列に並んでいる時間を失いますし、多くの人と同じ情報を確認するだけになります。
まだ多くの人が美味しいと気づいていないものを探す。
それは “美味しくないものを食す” リスクを伴いますが、人とは違う価値の情報を得られるわけです。
現代アートも同様です。
リスクを取って、新しい表現を探求しないと、独自の価値を生み出すことは困難です。
だからといって、闇雲にリスクを取れば良いというわけでは、もちろんありません。
リスクを取るには、“そのリスクが生じても良い” と思えるほどのものを選ぶのが条件です。
現代アート作品でいえば、「この作品なら、例え誰にも認められなくても構わない」といえる表現を選ぶ、ということです。
つまり、
“心中” できるくらい、思い入れがある表現を選ぶべきです。
だからこそ、素晴らしい現代アーティストたちの多くは、“自身の人生を見つめ直した” 表現に焦点を当てるのです。
人生をかけてきたものなら、個性的にもなりうるし、心中できるほどの思いを寄せることができるのです。