“未来派” の限界を考える

 
 
20世紀初頭に興った『未来派』という美術の流派があります。
都市などの “未来の姿”、人間や動物や景色の “運動” を描いた流派です。
 
一つの絵画の中で、一つのモチーフの “多数の運動” が入った絵画は、とても魅力的です。
私は学生時代に熱中したことがあります。
 
ところが、この未来派は、歴史的、社会的背景で未来派という組織そのものが解党しました。
絵画的な限界を迎えず、終わっていったのは非常に残念です。
 
 
しかしこの未来派、やがて “終わりゆく運命” だったことが予想できます。
 
なぜなら、単純に「未来が描けていなかったから」です。
 
 
都市などの “未来の姿” は、奇抜なイメージで、それが果たして現実になるかもわかりません。
“いつか” なるかも知れない “未来の姿” は証明のしようがありません。
証明のしようがない景色は、空想で終わって、説得力を持たなくなってしまいます。
 
人間や動物や景色の “運動” は、未来の動きを予想して描いていますが、それは多くの人にとって “想定内” の “運動” で、未来そのものを描けていたわけではありませんでした。
 
つまり未来派は、未来という “はじめから描くことのできないもの” を描こうとしていたわけです。
当然、絵画としての限界が来てしまうことが推測されるわけです。
 
何より、美術史上にその流派が刻まれたにもかかわらず、未だにその流派を継承するアーティストが出てこないことが、“未来派の限界” を証明し続けています。
 
 
しかしながら、「“未来” という、不確かで見えなくて希望に満ちたもの」を追いかけた未来派の姿勢こそ、アーティストが未来に継ぐべきものでしょう。