アート作品には、「何だコレは!?」と思わせる要素が必須です。
見たことがあるもの、理解したことがあるもの、
それらに対して「何だコレは!?」とはなりませんよね。
例えば、可愛らしい仔猫がいます。
その仔猫を実物同様に描ければ、可愛らしく見えるでしょう。
なぜなら、「仔猫は可愛らしい」という見方を脳が既に持っているからです。
その絵は見えたまま描いた、ただのスケッチであって、アートではありません。
そこで、「可愛らしく見える」とは異なる見え方、を表現するのがアートなのです。
色彩やタッチ、テクスチャなど絵画特有の表現で、
「可愛さ」とは違う何かを追求する人もいれば、
仔猫と枯れ木を一緒に描いて、「生と死」のテーマを暗示する人もいるでしょう。
仔猫の原型すらなくし、「場」や「時間」を描く人もいます。
19世紀以降、世界には様々な「何だコレは!?」表現が誕生しています。
しかし、たくさんの新しい表現は真似され、パターン化され
人々の脳に解析用のコードが蓄積されます。
パターン化された表現で描かれた作品は、脳にある「既存のコード」で
一瞬でスキャン処理されることになります。
何度も脳が解析した作品に、人は無関心になります。
「ああ、それね。」って感じで。
そんな訳で、世界中で増え続けるアート作品は、常に人々の「既存のコード」から
解析されない表現が求められているのです。
それは、ブルーオーシャンを目指し争う、熾烈な世界でもあるんです。
「既存のコード」に解析されない作品を描くには、主に二つのバックボーンが必要です。
一つ目は、類稀な人生を送った経験を持っているか。
二つ目は、あらゆるアート作品のコードを持っているか、
のどちらかです。
私を含め、日本人の大半は後者です。
民族的虐待を目の当たりにして生きてきた、
性差別による抗えない階級制度の中で生きてきた、
といった過酷で特殊な経験を日本人は持たないからです。
アートと呼ばれる作品を生むには、多くの作品に接して、
コードを大量に持たなくてはならないのです。
「自分は自分、人は人。俺は俺らしい表現をする。」とか言ってる場合じゃないんです。
その“俺らしさ”は新しいコードでなければ、素通りされてしまうんです。
人の表現を常に気にしながら、新しい表現をしましょう。
「何だコレは!?」と見る人に思わせ、新しい経験を見る人に渡しましょう。
それが、アートです。