アート作品はネットの画像や印刷物として、複製物にされています。
さて、複製物にされることによって、本物の価値は下がるのでしょうか。
素晴らしい芸術に唯一性「アウラ」がある。
と、かつてヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代と芸術』で書きました。
この唯一性「アウラ」とは、価値のある芸術作品ことです。
聖堂や礼拝堂、神殿などの限定された場所に描かれ、あるいは保管され、
限られた人しかその作品を見ることが許されなかった。
そんな時代の芸術作品を指します。
なぜ限られた人しか見れないかというと、作品を展示するという考えや、
複製する手段が当時はなかったからです。
この「限られた人にしか見れない芸術作品」という価値が、
複製技術の発達によって低くなる、ということをベンヤミンは書いているわけです。
要は複製物が増えると、“本物”は希少性が失われて、価値が落ちる、
ということです。
そもそも、複製されたものに、価値はないのでしょうか。
私は、複製にも価値があると考えています。
例えば、画集やインターネットで作品を見るのは嘘の体験ではありません。
媒体によって画質に多少差があっても、絵の構図や明暗のコントラスト、
色相、描いている対象、作品のテーマなど、作品の方向性は実物と同じです。
それらの要素が抽出された作品を見る、という体験をしているわけです。
その体験分の価値を、複製物は持っているといえます。
一方、本物にもやはり価値があります。
本物の作品を鑑賞すると、テクスチャや色味、タッチなど、実物を
見ないとわからない多くの体験があります。
何より、「コレが“本物”ね」という“安心感”があります。
いくら実物に似たものを作っても、本物以上の本物はあり得ません。
人が持つ「コレが“本物”ね」という認識は唯一です。
だから、本物は希少性を失いません。
iPodが爆発的にヒットした当初、音楽業界でも曲がデータとなり複製されました。
多くの人が、手軽に安く曲を買えるようになりました。
その結果、本物の演奏であるライブは価値が下がったでしょうか。
むしろ、データとしての複製物が広がることで、本物(ライブ)の価値が上がりました。
複製物が増えると、本物の価値もあがるんです。
コロッケさんと美川憲一さんの関係ですよ。