批評を書き手の肩書きで評価できるか

 

ルネサンス期など、はるか昔の芸術界のことはわかりませんが、現代では、

評論家がアーティストの作品に対し、批評をするのは当然になっています。

少なくとも日本や先進国のアート界ではそうです。

評論家は、どれだけ作品を称えようと、批判しようと自由な状況です。

そもそもですが、評論家はアーティストではありません。
作品を創らない、違う立場の人です。

では、違う立場の評論家が、アーティストの作品についてわかるのでしょうか?

わかりますよね。

評論家は、多くの作品を歴史的背景からコンセプトまで学び、
客観的に見てきており、批評に高い信頼性があります。
高い信頼性というのは、それだけ批評を裏付けられるデータ(見方)を持っているということです。

アーティストが多くの時間を制作に費やしている時間、評論家は膨大な芸術作品の研究に時間を費やしています。
多くの客観的データで評価軸が完成している評論家は、批評が信頼できるのです。

一方、アーティストが同じアーティストの作品について批評をするのはどうでしょうか。
一見、同じアーティストなので整合性が取れている気がします。

しかし、アーティストは自身の作品を見る視点で、他のアーティストの作品を見がちです。
なぜなら、自分が苦労して手に入れた表現やテーマを持っているため、
自分の作品の方針を基準に、他の作品を見ているのです。

そのため、アーティストは“自分に近い表現”をするアーティストの作品は評価しますが、
テーマや表現が全く異なるアーティストの作品には評価軸があいまいになります。
自分が選ばなかった表現やテーマの作品は、専門外であったり、興味がなかったりで、
評価の軸を持っていないことが多いのです。

しかも、ひどい場合、“自分に近い表現”をする作品を、批判する場合もあります。
それは、近いアート上の課題を追いかける、ライバルの作品だからです。
この手のアーティストは、先に新しくインパクトのある表現して、活躍したいと考えていますので、
ライバルを認めたくないのでしょう。

以上の理由により、
アーティストでない評論家が作品について批評するのは問題ないことがわかりますが、
アーティストが作品について批評するのは慎重にならなくてはなりません。

もちろん、見識高い評論家と同じレベルで批評できるアーティストもいますし、
逆もいます。

重要なことは、誰かの批評に接する時は、“誰が”批評しているかではなく、
その内容をしっかり吟味しなくてはならないということです。

たとえば日本人アーティストの作品について、日本の状況だけを判断の材料に
している批評があれば、
「世界の状況が検討されていないのでは?」と吟味することが必要です。
批評している人が有名だから信頼性が高いとは限らないのです。

私は制作にあたり、できる限り多くの人の意見を聞くようにしています。
専門家もいれば、デザイナーもいれば、サラリーマンもいます。

その中で、私が気づいていない課題をピシャリと指摘してくれるのは、
サラリーマンだったりします。

たまに、「〇〇〇を描くとコレクターに売れる」「Tシャツなら買いたい」
など課題と関係のないアドバイスを頂くこともありますが、
それはそれで、楽しんでいます。

 

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