美大受験時代によく耳にしたデッサン力について、その必要性を検討します。
デッサンとは、対象を写実的に描くことです。
「写実的に描く」とは、“見えたままを、写し取るように描く”ことです。
見えたままを完璧に写し取れた絵は、カメラがレンズの前にあるものを正確に写した写真と、
同然の見た目となります。
写真と同然のレベルにデッサンを仕上げるには、訓練をある程度積まなくてはできません。
誰でもすぐに写真レベルにできるわけではないため、人によって出来あがりに差がでます。
このように、写実的にどれだけ描けるか、を“デッサン力”と呼ぶのです。
写実的にどれだけ描けたかは、人によって差が出るため、評価の指標にするのに持ってこいです。
そのため、日本の美大受験では昔から、デッサン力を問う試験が多いのです。
近年は、現代アートの多様性に呼応する形で、露骨なデッサン力を問う試験は減りました。
露骨なデッサン力を問う試験とは、単体の石膏、単体の人物などを描く試験です。
しかしながら、今でも形を変えて、美大受験はデッサン力を問い続けています。
テーマを与えたり、テーマなしで自由に描かせたり、と出題ではデッサン力を問うているように
見えませんが、提出された作品にデッサン力を問うているのです。
さて、こうして美大受験をくぐってきた多くの日本人は、“デッサン力”を武器に現代アート界に
乗り込むわけです。
過酷な美大受験を勝ち抜かせてくれたデッサン力という武器は、日本人アーティストたちの
拠り所となる訳です。
しかし、現代アート界でいざ戦おうとすると、その武器は役に立ちません。
世界の現代アートでは、“デッサン力”があるということは、ごく小さな特徴でしかないからです。
日本の若者が必死にわずかな武器を身につけている間、世界の若者は「コンセプト」や
「現代アートの文法」を身につけているのです。
わざわざデッサン力を身につけて写真のように描くのではなく、
キャンバスにプロジェクターで写真を投影し、絵を描くわけです。
また日本国内ですら、デッサン力を持った人があふれ、コモディティ化しています。
デッサン力は必ずしもいらないのです。
しかし日本では、以下の方に必要となってしまっています。
・入試で写実的な描写を要求される日本の受験生
・テーマと表現に写実的な描写を要求されるアーティスト
上記と関係のない人は必要ないはずなのですが、
日本人でアーティストを志す多くの人は、美大にいくため、
デッサン力を磨かざるをえないのです。
伝説のデッサン指南書である『素描論』には、デッサンの絶え間ない鍛練が
究極の線にいきつくことを力説し、本編の終わりで、パウル・クレーの
天使を描いた素描を載せています。
しかし、クレーがあのシンプルな線に行き着いたのは、絶え間ないデッサンの鍛練ではなく、
他者とは違う表現を研究、追及したからでしょう。
デッサン力を上げ続けることは、他の大いなる可能性から離れていくことなのです。