鉛筆1本に見える、資本主義の “光と影”

 

 
デッサンの勉強を本格的にはじめるとき、その鉛筆の種類の多さに驚いたかと思います。
ここでいう種類とはメーカーのことではなく、“濃さ” のことです。
 
9Hから、EEまで。
 
鉛筆を使う側としては、
「全部を使わないと、良いデッサンが描けないの?」と思うかたも、少なからずいらっしゃるかと思います。
 
実際、アトラスはそう思い、ガムシャラに全濃度の鉛筆を1枚の作品に使用していたことがあります。
4Hと9Hの差は硬さ程度しかわからず、EBはチャコールペンシルと区別がつきませんでした。
 
 
このように多くの “濃度” がある鉛筆は、その多くを同時に使うべきなのでしょうか。
 
 
結論としては、人により使う濃度幅は自由です。
 
すべての濃度を駆使して良いデッサンを描く人がいれば、『H』のみの濃度を駆使して良いデッサンを描く人もいます。
 
 
それは、油絵や日本画などの「色」をしようする絵画と同じなのです。
『グランド・ジャッド島の日曜の午後』のような多色の傑作もあれば、『ゲルニカ』のような単色の傑作もある、ということです。
 
 
そもそも、この “鉛筆濃度の多すぎ問題” は描き手と売り手の意識の差異から、生まれています。
 
細かなニーズに応えようとして、売り手が作った『EE』や『9H』。
これらのような商品を愛用するユーザーは、ごく僅かしかいないはずです。
 
(ただし、アート系人種として買わなきゃいけない気がして、持っている人はけっこういるはずです。)
 
逆に描き手としては、“少ない出費と少ない手間” で、良いデッサンを仕上げられれば良いのです。
明るい場所のハイトーンと、モチーフ設置面のダークトーンまでが表現できれば、本数は必要ないのです。
 
資本主義というシステムは、このような極少のニーズにまで応えようとし、多くのアート系ユーザーを翻弄しているのです。
 
しかし逆に、大多数のニーズに応えて存在する『H』『F』『HB』は、資本主義システムの光が生んだともいえるでしょう。
 
 
 
 
 
 

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