会田誠さんの、「変態」という “ペルソナ”

 

会田誠さんは、少女のヌードを中心としたモチーフを、細密な描写で描くアーティストです。
国内では、言わずと知れた人気アーティストですね。

人気の理由は極めてシンプル。
作品の “分かり易さ” です。

会田誠さんの作品では、画面に描かれたモチーフが「何かわからない」ということは、まずありません。
ストレートな具象絵画です。
モチーフは細部までしっかりと書かれているため、モチーフの詳細な情報を認識することができます。


会田誠さんの作品に、『あぜ道』という無名時代に描いた傑作があります。
田舎の女学生の後ろ姿。その二つ結びの髪のワケ目が、田舎の畦道につながっている作品です。

「景色で象徴された田舎」と「人で象徴された田舎」がかけ合わさり、どの鑑賞者も作品を「わかった!」とヒラメキと納得を経験できます。

会田誠さんの作品は、描写方法、テーマ、ともにストレートでわかりやすいのです。


そして、会田誠さん作品の、もう一つの特徴は “変態性” です。
少女のヌードが、作品に繰り返し登場します。

もはや代名詞のように、会田誠さんの “変態性” は周知となりました。
しかし、この “変態性” 。
会田誠さん生来のものでしょうか。

私は、そうは考えていません。


なぜ私は、会田誠さんを「変態」と思わないか。

それは、「変態」さを “真面目” に遂行しているからです。

なぜなら、“変態性の象徴” として、少女をモチーフにすることを決定し、他の変態性を象徴するものを殆ど描かなくなっているからです。

少女が大好きな本当の変態なら、『巨大フジ隊員VSキングギドラ』(1993年)以前の段階で、その“変態性” が垣間見える作品を制作したはずです。

しかし『巨大フジ隊員VSキングギドラ』以前は、“現代アートというマーケット” を、かなり意識した作品群が制作されています。
非常に “真面目” に、ひたむきに現代アートマーケットに作品を投入していたかがよく解ります。

そうして、活動して、ようやく日の目を見たのが、少女が犯されるという大胆な絵画『巨大フジ隊員VSキングギドラ』だったのです。


会田誠さんが、アートマーケットで他の商品(作品)と差別化するためにとった戦略。
それが、“変態性” なのです。

『巨大フジ隊員VSキングギドラ』以降は、これまた “真面目に” 少女のヌードを描き続けています。


また会田誠さんは、「変態」を認知する広報活動も怠りません。

以前、会田誠さんの展示をお手伝いさせて頂いた際、テレビの置いてある小さな居酒屋で食事をご一緒させて頂いたことがありました。
その際、テレビに映る女性タレントや女子アナウンサーの秘部を、テレビの上から触り続けていました。

当時は「この人は本当の変態だ!」と周囲に話しました。
しかし、振り返って思うと、徹底した見事な広報活動だったな〜と思います。
本当に真面目なアーティストです。


こうした会田誠さんの活動に見られるド真面目さは、まさに平均的な日本人であるといえます。

会田誠さんは、真面目さの象徴である“描写力” という武器以外、アート的特性を「何も持っていない」ことを自覚しています。
その証拠に、ご本人もインタビューで自身のアート的特性のなさを、語っています。

「何も持っていない」自分に武器を持たせるため、様々なエッジの立ったモチーフを描いた末に評価されたのが、「変態」と解釈されるモチーフ(『巨大フジ隊員VSキングギドラ』だったのです。

そして、ようやく評価された「変態性」を、 しっかりと “展開” するスタイルも、柳井正さん的で真面目な企業家精神を持っている証拠です。

たまに雑誌や書籍、WEBでの発言の節々にも、真面目さが通じてきます。
常日頃、アートや社会を考え、勉強を怠っていないことがよく分かります。


会田誠さんのような、日本人的な真面目さを体現するアーティストが、日本国内において人気を博す。

それは、今も真面目な日本人が多い日本では、当然の帰結といえます。

一方で、ここまで日本で人気が出てしまうことに、「日本のアート素養は、世界と差異はないのか?」と私はつくづく感じてしまうのです。
なぜなら、世界のアートは真面目な “わかりやすさ” とは反対を求めているように感じるからです。

しかしながら、日本の高度経済成長があったのは、“ド真面目” が影響したのは事実です。
その “ド真面目” さを持つ会田誠さんの作品が、この先世界にどのようなプレゼンスをみせることができるか、興味深いところです。


 




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