政治とアートの関係

 

作品をつくるということは、好むと好まざるにかかわらず、何らかの “主張” をすることになります。

動物の絵をかけば、

「動物が好き」

「肉食動物は現代人の象徴」

「動物を大切にしよう」

「動物の多様性から、世界の多様性を想像しよう」

など、多様な “主張” の一つに落ち着きます。


つまり、作品をつくるということは、何らかの “主張” をしている。
“主張” とは、ある考えや価値観を訴えることです。

「何らかの “主張” をしている」ということは、作品は “政治的” な要素を含んでしまうのです。


たとえば、クレヨンで “優しそうな表情” の「キリン」 を描いたとします。

この作品も、広い意味でいえば、“政治的” な作品です。
なぜなら、「平和」を “主張” しているからです。

描いた本人が意図するしないにかかわらず、作品とは“政治的” な要素をふくむわけです。


通常の作品は、その主張が弱いため、あまり “政治的” な要素は表立って見えてきません。
また、“アート独自の要素” を強く主張する分には、“政治的” な作品になりません。


ところが、“アート独自の要素” 以外の主張が強すぎる作品は、極めて “政治的な作品” へと変貌してしまいます。

特定の人種や民族の地位を強調、あるいは否定する作品。
暴力や戦争を強調、あるいは否定する作品。

あるイデオロギーがあって、そのイデオロギーをアート作品で広めようとした場合、それは濃厚な“政治的な作品” です。

「平和」や「かわいい」などの “器の広い主張” であれば問題はあまりありません。
しかし、“狭い範囲に絞られた主張” は強制性をもってしまいます。

多様な視点、多様な思考を与えるのがアートなら、
“政治的な作品” は、一つの考え方や価値観に同調させようとする “ツール” となってしまうのです。

課題ではなく、自由に制作をする場合、自分の作品に意図せぬ “政治性” が含まれていないか、チェックが必要です。

自分の生み出した作品が、「政治のための作品」と解釈されるのが、一番悲しいことですから…。


 




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