「現代アートは、わからない」
現代アートについて会話しようとすると、“よく” いわれてしまうフレーズです。
この言葉の裏には、「わからないものは、見ないよ」という意志が垣間見えます。
だから、このフレーズを言う人に、現代アートの魅力を伝えようとしても、ほとんど相手にしてもらえません。
「わからないものは、見ない」
確かに心情は理解できます。“まったく“ わからないものは、楽しめません。
アートもスポーツもわかってこそ楽しめるものです。
しかし面白いことがあります。
「現代アートは、わからないから」という人の中の多くは、“印象派” の作品などは積極的に美術館に足を運ぼうとするのです。
小学校、中学校、などの義務教育で教わった代表的な流派である印象派。
複製画や書籍なども多い印象派やルネサンス時代の作品。
印象派やルネサンス時代の作品は、当然のように興味を持ち、観賞を楽しむ人が多いのです。
つまり現代アートを蚊帳の外に置く人は、“アート全体” を拒否しているわけではありません。
“良いことが当たり前になっているアート” は受け容れているのです。
これは、ものごとについて、“誰かが認めたものだけ” を受け容れている、という姿勢を持っているということです。
反対にいうと、“誰も認めないもの” は受け容れない、ということです。
そもそも、生まれながらにして自分を受け容れてくれるのは親だけです。
人は、自分を認めてもらうための努力と、他人を認める努力を自然に行いながら生きています。
“誰か” が良いとしたジャンルのアートしか受け容れず、理解できそうになければ関わらない。
これは、身内だけと関わって生きているのに似ています。
社会に出て、仕事をして生きていくには、いかに身内以外の人に受け容れてもらうかが重要です。
受け容れてくれた人の数が多い人ほど、経済的に豊かになれることは一面の事実です。
アートに興味関心がある人たち。
その人たちが、「現代アートを少しでも理解しようとするか否か」
この “問い” には、人生の縮図が隠されているのです。