“芸術祭” という鎖

 

 
海外の有名アーティストを集める日本国内の展覧会で、「地域性」を重視したものがあります。
 
『大地の芸術祭』『瀬戸内国際芸術祭』
 
など、ここ十数年でよく聞く展覧会となりました。
 
 
これらの「地域性」を重視した展覧会は、「地域を振興する」という名目を持っています。
なぜなら、芸術 “祭” という名称にあるように「祭」だからです。
 
しかし、海外の有名アーティストの作品を集める “場” に、「地域性」を持ち込むのはいかがなものでしょう。
 
「海外の現代アーティストに素敵な展示をしてほしい」のか、「地域を有名にしたい」のか。
いまいち、“本当の目的” が見えてきません。
 
地域性を展覧会の主軸にした場合。
それは、「作品と地域性のマッチング」が “絶対条件” です。
 
そのため、海外のアーティストが手がけた作品が、その地域性にマッチしていない場合、「地域の活性化」を謳うことには、違和感を感じずにいられないのです。
 
国内のアーティストですら、日本の一地域へマッチングした作品を手がけるのは、難しいでしょう。
ましてや海外のアーティストは、なおさらです。
 
 
現代アート作品は、最先端の表現物だからどんな地域にでもマッチする、
なんてことはありません。
 
“世界各地域の土壌を生きた” アーティストが作品を作っているのですから、多くの現代アート作品は “その作品が生まれたバックボーン” があるわけです。
 
つまり、活躍している現代アーティストの作品だからといって、日本の一地域に突然マッチすることはありません。
ましてや、日本の一地域にマッチさせようとした作品は、そのアーティストの持つバックボーンが失われてしまうのです。
 
 
そもそも、“芸術祭” という言葉自体に問題があります。
“祭” としてしまった時点で、突然 “地域性” がテーマになってしまっているのです。
 
“地域性” を意識せざるを得なくなった時点で、参加する海外のアーティストに “縛り” を強いることになるわけです。
 
 
日本に海外の現代アーティストを集めることは、まったく異論はありません。
活躍するアーティストの作品を見るのは、非常に重要なことです。
 
しかし、せっかく活躍するアーティストの作品を見るなら、“全力の作品” を見たいし、見せるべきです。
 
なのに、“芸術祭” で “地域性” を意識し過ぎた作品は、アーティストのバックボーンが失われて、全力ではない。
 
一番残念なのは、日本の各地域から “芸術祭” に期待して来た人たちが、そこにある作品を “全力の作品” として認識してしまうことです。
その展覧会をもってして、来場者が「アートはつまらない」となってしまうかも知れないのです。
 
 
地域というアクセスしづらい場所で、現代アーティストの作品が見られるのは価値あることです。
だからこそ、“地域性” を前面に出すのではなく、その地域を “一場所” として提供すれば良いのです。
 
その点、『横浜トリエンナーレ』などは、“地域性に無関係なテーマ” を設けているため、アーティストたちは「力」を発揮しやすい展覧会です。
「海外のアーティスト作品は地域にマッチしてるかな?」という心配とも無縁です。
 
それに比べ、地域性でアーティストを縛る “芸術祭” は、単に “大規模なイベントで人を動員したい” という、“主催者サイドのお祭り気分” を感じざるを得なくなってしまうのです。
 
展覧会とは、アーティストの “全力作品” と鑑賞者を出会わせる場所です。
その成否こそ、主催者サイド”の “成果” としてフィードバックされるべきなのです。