アーティストに「見る人の解釈に委ねる」は許されない

今日もお疲れさまです。

アート作品は常に、「見る人の解釈」を生じさせるものです。
アート作品には、どんな作品もテーマやコンセプトがあるため、鑑賞者は何らか考えたり感じたりするのです。

たとえば、美しい花の絵を描いていれば、「美しい花の絵だな」と感じるわけです。

そして現代アートでは、「見る人の解釈」が多岐にわたります。
一つの作品で、複数の解釈が生じることがあります。

一つの作品で、「視覚体験」として解釈する人もいれば、「政治的主張」として解釈する人もいるわけです。

そのため、現代アートは「見る人の解釈に委ねるモノ」という、“鑑賞者主体” の論理が出てくるわけです。

そうした論理が出てくると、アーティスト側も、この論理に基づいて作品を手がける人が出てくるわけです。


しかし、鑑賞者とアーティストは同じ場所にはいません。
鑑賞者は解釈の自由を得た場所にいますが、アーティストはそうではありません。

アーティストが解釈の自由を得てしまうと、とんでもない問題が起きてしまいます。

それは、「自分が “解釈できない作品” を手がける」ということです。

これの何が問題か。
まずは、解釈できない作品を手がける思考プロセスです。

まず。
「現代アートが解釈が多岐にわたるのなら、自分にとっても解釈が多岐にわたる作品を作ろう」

と、考えます。

そして次。
「解釈が多岐にわたる作品を手がけるには、“自分の解釈を越えなければならない”」

と、考えます。

最後に。
「 “自分の解釈を越える作品” とは、自分が “よくわからない作品 ” である」

という結論に行き着きます。


つまり、
「自分が “解釈できない作品” を手がける」というのは、自分にとって “わけのわからない” 作品を制作することにつながってしまいます。

アーティストが、自分で良し悪しを判断できない、“わけのわからない作品” を制作しはじめると、収集がつきません。

そのアーティストにとっては、自分がわかりにくければ何でも良いため、テーマやコンセプト、審美的要素、すべての基準があやふやに陥ります。

当然、そのアーティストの作品はどこに向かっているかは、本人含め誰にもわかりません。
最終的には、アーティスト本人も、制作が楽しいかどうかも、わからなくなってしまうでしょう。


アーティストは、自由な解釈を目指して制作するのではなく、
自分にとって何を表現するのが重要で、何を伝えるべきなのか、
をしっかり持たなくてはいけません。

それが、万人に伝わるわけではありませんが、しっかり伝わる人も必ずいるわけです。

少なくとも、自分自身は自分の作品を解釈しなくてはいけないのです。


アーティストに解釈の自由があるとすれば、アーティストが鑑賞者になったときだけです。

鑑賞者として、他のアーティストの作品を鑑賞者するときだけは、自由な解釈を楽しむことができるのです。


では、何かあれば教えてね!




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