現代アート作品を鑑賞した時、受け止め方は人により異なります。
すごく心に響いて、色んなことを考えるきっかけになる作品、
見た瞬間、不愉快になり、二度と思い出したくない作品。
現代アートの膨大な表現方法の前に、様々な反応があるのは当然のことです。
さて、現代アート関係者や、現代アート鑑賞が好きな方は、
自身がそれまで見てきた作品について、語り合う機会があると思います。
語り合う機会に出てくる話に、
「どのアーティスト(or 作品)が好きか?」
「どのアーティスト(or 作品)が良いか?」
の二軸でお話をされたことは、ないですか?
ちなみに私は、よくあります。
そして上記の二軸の違いは、“好きか?”と“良いか?”の違いです。
“好きか?”は個人の主観による感情ですが、感情を語るのは全く問題ありません。
しかし、“好きか?” と “良いか?” を同じ意識で語るのは問題です。
なぜ問題か。
アーティストや作品の“良いか?”を語るのは、“評価”しているのと同じだからです。
そのため、“好きか?”という主観で“良いか?”を語ると、客観性が失われてしまうのです。
例えば、
「どのアーティスト(or 作品)が好きか?」
について語る時、
「○○というアーティストが好きなんだよね〜」
に始まり、(ここまでは問題なしです)
「○○の作品は色が良いよね〜」
ここで、“良い”というキーワードが出てきます。
そして、いくつか“良いよね〜”がでた後、
「○○というアーティストは本当、良いよね〜」
で話は終わったとします。
上記の例は、“好き” が “良い”に変わり、そのままアーティストへの“評価”になっています。
しかも、この例での“良い”には客観性がありません。
つまり、“好きか嫌いか”は客観性のなく“評価”に伝染してしまうのです。
“好きか嫌いか”の評価は、客観性を失い、主観になってしまうわけです。
なぜ主観で作品を評価してはいけないのでしょうか。
それは、“好きか嫌いか”など主観の評価は、“論拠を持たない”からです。
論拠を持たない評価は、事実がないため他者間で共有することができません。
他者間で共有できないものは評価ではなく、“感想”です。
そのため論拠を持たせるには、客観的な証拠が必要です。
客観的な証拠を持ってはじめて、まともな評価ができるわけです。
例えば、
「ウォーホールの作品かっこいいよね。ポップアートで1番良いよね。」
は感想です。作品がかっこいいから、1番とはいささか強引です。
「千枚以上も有名人のポートレートを制作したウォーホールは、
ポップアートで1番重要な作家だよね。」
これなら論拠があるため、評価になっています。
評価が本当に正しいか、建設的な議論もできます。
主観による評価は、“感情論”に陥りがちです。
“感情論”に陥った結果は、わかりますよね。
そうです。
感情論で評価の話を進めると、意見が合わない場合、喧嘩になります。
喧嘩にならずとも、客観性のない評価を「しぶしぶ認めるか」「しぶしぶ認めさせるか」
となります。どちらも不愉快な思いは残ります。
アートは人々の心を豊かにするために存在します。
ですので、作品の“外側”で不愉快な思いはしたくないですよね。
“好き嫌い”で語る時は、評価につなげないよう気をつけましょう。