先日見た、テレビのある美術番組です。
番組内では、画家と作品を紹介していました。
ある画家の作品に、ゲストのアーティストがこうコメントしました。
「良さがわからない」
番組の紹介作品を否定したわけです。
問題なのは、「否定」したことではありません。
その後のコメントです。
ゲストのアーティストは、
「良さがわからないから、何が良いのか考えられる」
とフォローしていました。
かなり苦しいフォローです。
ゲストのアーティストは、コメントする段階においても、良さがわかっていなかったのです。
すなわち、“何が良いのか、よく見たけど、やっぱり分からなかった” ということです。
フォローではなく、否定の上書きになっています。
この「良さがわからないから、何が良いのか考えられる」コメントが問題なのは、
「良さがわからない作品は、何かが良いはず。」
というありえないロジックを作ってしまったことです。
つまり、「良さがわかる作品は良い。それ以外の、良さがわからない作品も良いはず。」
というロジックなのです。
世の中の全ての作品が良い、と言ってしまったに等しいのです。
視聴者は美術に興味があり、番組がオススメする「良い作品」を見たいし、プロから「良さの解説」を聞きたいのです。
「どんな作品も良い」という趣旨のコメントを聞いてしまうと、「紹介作品はなんでもいいのか?」と番組への不信感を持つことにつながります。
そもそも、番組側はゲストの間で紹介される作品を共有し、配慮あるコメントを依頼すべきでした。
しかも、否定のコメントが出た時点で収録し直せばよかったんです。
世の中には、
「何かがすごく良い。でもその良さの理由がわからない」
という作品がたくさんあります。
「良さ」を認識後、何が良いか理由を考えられる作品です。
先ほど挙げたコメントと違い、“先に良さがわかる作品” です。
「良さがわからない」とは似てるようで、まったく質が違います。
鑑賞者は作品を見る時、はじめに「良い」と思えない作品は、鑑賞の対象から外れます。
まず「良い」と思えない作品は、そもそも鑑賞しないのです。
(ここでいう「良い」には、“気になる” など、ひっかかりも含みます)
「わからないから、何が良いか考える」は、無理矢理に良さを探す作業です。
教育の場や、アーティストに気を遣う場では、多少あるでしょう。
しかし、一般のアートを楽しみたい人には、良いと思えた作品だけを、一秒でも長くみたいのです。