人はいつか、死を迎えます。
頭ではわかっていても、その事実を想像することは難しいものです。
なぜなら、現代はあらゆるメディアで “死のイメージ” が過剰に氾濫しているため、“死の
イメージ” すらコモディティ化しているのです。
そのような現代社会で、自らの「死」を意識する時はあるのでしょうか。
川内倫子さんの写真は、「死」を暗示する被写体が扱われます。
死んだ虫、死んだ魚、死んだ牛、
食べ終わったスイカ、
消えゆく木漏れ日、
手持ち花火の閃光、
稲光、
老人、
青春の日、、。
被写体は、“終わったもの” と
“これから終わるもの” がほとんどです。
死の予感に溢れた被写体。はかなく、美しく撮られています。
そして鑑賞者が日常目にするような、極めて自然なシーンから “死の予感” を切り出します。
はかなく、美しく撮られた被写体であるがゆえ、鑑賞者はずっと眺め、死の予感の中に引き込まれてしまいます。
そして、その自然な死のシーンに、鑑賞者自らの死を重ねるのです。
「こんな風に当たり前に、自然に自分は死んでいくんだ」と。
もしもっと残酷で、直接的な表現の写真であれば、自らの死は感じなかったでしょう。
戦場や紛争地帯の死体、葬儀時のデスマスクなど。
それらは「残酷」というパターン化されたイメージのため、自分の死を意識する装置とはなりません。
“目を背ける”か、“何も感じない”か、
いずれかのの処理を脳が行うだけです。
それほどまでに、現代に生きる人々は、死の意識から遠い場所で生きているのです。
川内倫子さんの表現する「死」は、直接人間を扱うことはありません。
しかし直接扱わないがゆえに、やさしく、巧妙に死の気配が鑑賞者に忍び寄ります。
そうして鑑賞者は、“死を意識するという通過儀礼” を執行されるのです。