ドラえもんと孫悟空の、落書きが意味するもの

 

子どもの頃、運動や勉強、工作をしたりした結果、大人や周りの友人などから、「才能があるね」と言われたことはないでしょうか。
言われると、何かお墨付きを貰ったように、うれしくなったかと思います。


昔から私は、この “才能” という言葉を、まるで “資格” のようだな、と感じています。

たとえば、

「野球の才能があるね」→「野球をする資格がある」
「算数の才能があるね」→「勉強をする資格がある」
「デザインの才能があるね」→「デザインをする資格がある」

といった具合です。


そして、この言葉の響きは、子どもだけでなく、あらゆる人にとって影響力が大きなものです。
人生を左右することすら、あると思います。
特に、「才能がない」と言われた場合です。


たとえば、親が経営者で、学校の成績が上位の生徒がいたとします。
そしてこの学生は、芸術鑑賞が大好きですが、絵を描くのは美術授業だけです。

ある時担任の先生に、「経営学部」と「芸術学部」のどちらかに進みたい、と相談します。
担任の先生は当然のように、「勉強の才能はあるけど、芸術はそれほどあるとは思えないな。美術授業の絵を見たけど。」と助言します。

担任の先生は、この生徒の何を見ているか、分かりますか?

そうです。
勉強の “結果” と、美術の “結果” を見ています。

この生徒の“才能” を見ているわけではないのです。

にもかかわらず、担任の先生は “才能” のあるなしを語ってしまったわけです。
あたかも、生まれ持ったやるべきこと、やらざるべきことが、決まっているかのように。

「生まれ持ったやるべきこと」など、決まってはいませんよね。
人生でやるべきことは、自分で決めるものです。

結局、“才能” とは “結果” のことなのです。
この例でいえば、担任の先生は、相談を受けた時点でこの生徒が持つ “結果” を、“才能” と決めてしまったのです。



では、“才能” が “結果” であることを裏付ける、別の例を出しましょう。


ある所に、アニメの『ドラえもん』を数回見たことがある、中学生がいました。

その中学生の所に、別の中学生がやってきて言いました。
「『ドラえもん』を描いて」と。

頼まれた中学生は、必死にドラえもんを思い出しながら描きましたが、目の形も、目と鼻の位置関係も思い出せません。
結果、本物のドラえもんとは、ほど遠いドラえもんが仕上がりました。

頼んだ中学生はその落書きを見て、こう言います。
「絵の才能ないね」と。


いかがでしょうか。この中学生は絵の才能がない、といえますか?

ではこの例に、続きを用意しましょう。


「絵の才能ないね」と言われた中学生は、その言葉を特に深刻には受け止めませんでした。
しかし、ドラえもんが描けなかった事実が忘れられず、家に帰り、タブレットでドラえもんを確認することにしました。
「なるほど、目と鼻はくっついているんだ。顔の輪郭線の上に目が乗っているんだ。」
と、自分が描けなかった場所を理解しました。
さらに、メモ帳に何度も、タブレットで見えるドラえもんを真似して描いてみました。

数か月後、その中学生は、前の依頼者とは別の中学生から「『ドラえもん』を描いて」と言われます。
もちろん今度は、ほぼ完璧なドラえもんが描けました。

頼んだ中学生はその落書きを見て、こう言います。
「絵の才能あるね!」と。


いかがでしょうか。

才能という言葉は、その時の結果で “あるなし” が変わるのです。
それを、あたかも生まれ持った変わらない資格のように、使われているのが現状です。

“才能” という言葉がいかに曖昧で、当てにならない言葉かがわかります。


上記の例のような “才能判定” は、多くの場所で行われています。

「才能がない」と判定されても、何も落ち込むことはありません。
ただその時の結果が、うまくいかなかっただけなのです。

ドラえもんも、ドラゴンボールの孫悟空も、30回も真似して描けば、大抵の人は上手に描けてしまうものです。
上手に描けるようになったのは、“才能” ではありません。
ドラえもんと孫悟空というキャラクターを記憶に定着させるという、作業の結果なのです。


 



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