“個人的な夢の実現” と“他人から見た夢の実現”

 
 
“夢を叶える” という言葉があります。
この言葉は、実現が困難な個人の強い希望が、現実になることです。
 
この言葉は、誰もが自由に使っている言葉です。
 
しかし、この場合の“夢” という言葉の意味は “個人用” と “他人用” と二つがあります。
 
“個人用” で使う際は、
「実現が困難な “自分の” 強い希望が、現実になること」です。
 
一方、“他人用” で使う際は、
「 “誰もが実現困難なことが、現実になること」です。
 
個人でこの言葉を使う場合は、何を “夢” に設定するかは自由です。
しかし、他人が誰かに対し “夢が実現した” と認識する時は、一定以上の基準を設けています。
特に、日本のマスコミや自己啓発書などは、顕著に基準があります。
 
その基準は、
ある仕事において、“大規模なマーケットを押さえること” を指しています。
 
例えば、ともに夢を持つ、中学生のA君とB君がいます。
A君の夢が「アフリカに行く」で、
B君の夢が「プロ野球選手になる」だとします。
 
この二人は、ともにめでたく夢を叶えました。
しかし、赤の他人から認知され、賞賛されるのはB君の夢です。
 
A君がアフリカに行ってきた、という話を赤の他人が聞いても、「そうですか…」と応えるだけです。
なぜなら、一般的な日本人であれば、お金をある程度用意すると、海外に行けてしまうからです。
そうして、A君にとってどれほどアフリカに行くのが困難だったとしても、夢の実現とは認知されません。
 
つまり、他人から “夢を叶えた” と認めてもらうには、“誰もが実現困難なこと” と認識できる内容でなくてはならないのです。
そして、その実現困難と “認識しやすいもの” を現代の日本社会は “夢” と認定しているのです。
 
簡単にいえば、
・社会人野球選手ではなく、プロ野球選手
・人工衛星の部品設計担当ではなく、宇宙飛行士
・地方誌のモデルではなく、パリコレのモデル
 
いかがでしょうか。
“夢を叶えた” ことが、わかりやすいものばかりですね。
 
しかし、上記のような “わかりやすい夢” を叶えるには、大勢の人を押さえ、大規模なマーケットで認められなくてはいけません。
 
非常に困難なことですよね。
 
平等を重んじる日本社会において、“大勢に勝ち、大規模なマーケットを抑える” という主旨の夢が、無意識に認知され、マスメディアにより流布されているわけです。
 
そもそも、“夢を叶える” とは、個人の幸せのために “実現できたらラッキー” くらいのもので良いはずなのです。
それがいつの間にか、“夢は大きく” というスローガンで達成困難なものを追うことが当たり前になっています。
 
夢は他人の認定など気にせず、個人の幸せのための、 “楽しみ” として持ちたいものです。
 
 
 
 
 
 

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