『自分へのご褒美』という言葉があります。
頑張った自分に対して、何かを買ってあげる。ということですね。
「欲しいものを、頑張った報酬として手に入れる」ということでもあります。
確かに、“頑張った自分” は報酬を与えるに値するのかも知れません。
しかし、この『自分へのご褒美』という言葉に違和感があるのは、
「ご褒美の対象」と「ご褒美を得る頑張り」のつながりに必然性がないからです。
勉強を2時間頑張ったから、スタバでフラペチーノを自分へご褒美として買い与える。
この場合、勉強とフラペチーノは関係ありません。
なぜなら、勉強しなくても、もともとフラペチーノは欲しいものだからです。
このように、何かを「頑張る」行為と、欲しい何かを「手に入れる」を無理に結びつけてしまうと、何かを「頑張る」という行為の先に、具体的な “報酬” が必要になってしまいます。
そして、“頑張ることそのもの” が生む、“達成” の価値を失うことになるのです。
なぜなら、“達成” という価値が、“具体的な報酬” に価値に置き換えられてしまうからです。
モノゴトを頑張った先には“達成” があります。
子どもの頃、大きな砂山を作ったのも、ドラクエでレベルを上げたのも、達成そのものが報酬になっていたはずです。
誰かに何かを買ってもらえるとか、褒めてもらえるとか、何かの権利が与えられるとか、そんな具体的な報酬を求めてはいなかったはずです。
何かをもらうことを求めず、“モノゴトの達成” が報酬になる。
それは、子どもの頃だけでしょうか。
そんなことはないですよね。
絵画でたとえると、
対象を描き進めるのに、ああでもないこうでもない、と工夫するとき。
色の配置や色味を、ああでもないこうでもない、と塗り直すとき。
夢中で工夫するとき、その “時間” とやりきった “達成” こそが最高の報酬なのです。
何かが終わってから、もらうモノ。
たとえば、お金や賞や承認…。これらには “時間” の概念はありません。
結果というモノです。
最高の報酬…。
それは、結果を出していくまでの、かけがいのない “時間” なのです。