アートがアートに見えなくなるとき

 

 
アートには、表現と技術が必要です。
 
「なんだ、コレは!?」と思わせる作品の “表現” 。
そしてその表現を具体化する “技術” 。
 
“表現” と “技術” の両方が揃うことで、作品は“アートになる” のです。
 
例えば。
ある人の「哀しみを表現する絵画」を制作するとします。
この場合、描く対象になる人の「表情」や「佇まい」を描く必要があります。
 
もし制作者が、「顔」や「人体の姿勢」を描く技術がなかったとしたら、哀しみを表現するのは極めて困難になります。
 
すなわち、哀しみというテーマを “表現する” には、相応の “技術” が必要というわけです。
技術が足りていない作品は、訓練を要することになります。
 
 
では、逆はどうでしょうか。
 
先ほどの「哀しみを表現する絵画」でいえば、「顔」や「人体の姿勢」を描く技術は卓越しているのに、哀しみは感じられない状態です。
 
つまり、対象をしっかりと描写する技術はあるが、便宜的な表情になっているわけです。
 
この場合は、“表現” を “技術” が超えた状態となっているわけです。
 
 
“表現” を “技術” が超えた場合に何が起こるか。
 
その場合、アートとしての見えかたは弱まり、「工芸」として見えるようになります。
「工芸」として見えるのは、表現が後ろに引き、技術が前面に出るときの見えかたなのです。
 
「工芸」は、卓越した “素材の妙” をみせる分野です。
技術が前面に出た絵画は、“絵の具の妙” をみせた「工芸」になるわけです。
 
制作において、技術を見せるのが第一の目的の場合は問題ありません。
 
しかし、アートとしての見えかたを維持するのであれば、“技術” が “表現” を超えないようにバランスを取らなくてはいけません。
 
 
 
 
 
 

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