“ガマンの限界” は意外と遠い

 

人生には我慢が必要です。
「必要」というか、我慢せざるを得ないものです。


子どもの時代。

自由に遊んでいる時、新しいモノゴトをはじめて見る興奮、永遠に続くように思えた時間…
楽しく、かけがえの無い思い出を持つ人は多いでしょう。


しかし、冷静に考えると…。

子ども時代は、“我慢の連続” です。


学校の授業や全校集会を “我慢” して聞き、夏休みは眠気を “我慢” してラジオ体操に通う。

習い事をしていれば、各ジャンルの習熟において “我慢” する。
書道、ピアノ、学習塾、水泳、算盤など。

ハードなスポーツをしていれば、鬼コーチの愛のムチを “我慢” する。
家に変えれば、よく分からず怒られて “我慢” する。
学校では給食の完食を求められ、いじめの順回被害を “我慢” する。



思い返せば、大人より子ども時代のほうが、求められる “我慢のレベル“ が高いのではないでしょうか。

なぜなら、抵抗が難しいからです。

抵抗の先に自由があるとも思えないし、権利を主張する知識も学んでいない。
抵抗できる身体も兼ね備えていない。

子どもは、一方的な我慢を強いられる可能性が高いのです。


それに比べ、社会人はどうでしょうか。
子ども時代に比べて、“我慢のレベル” はかなり低いのではないでしょうか。

自分のやりたいことができる。
やりたいことが失敗したら、次のチャレンジに切り替えられる。
自分に合う職場をえらべる。
職場が合わなかったら転職ができる。
能力に磨きをかけておけば、独立もできる。


正確にいうと、“我慢のレベル” が低い、というより、社会人は “我慢の種類を選べる” のです。

この、“我慢の種類を選べる” のが、社会人の最大のメリットです。

たとえば…。
難易度の高い資格を取るために、「遊びの時間を我慢する」という我慢を選ぶ。
所得の高さを保持するために、「好きな仕事を我慢する」という我慢を選ぶ。
画材を買い続けるために、「好きな服を買うのを我慢する」という我慢を選ぶ。


つまり、がんばって社会人(成人)まで生きてきた人は、“我慢を選んで” 生活しているのです。


それなのに、そんな社会人からよく聞くフレーズがあります。


それは、

“我慢の限界” 

というフレーズです。


けっこうよく聞きますよね。


実際、このフレーズを口にするとき、本人は本気で “我慢の限界” と思っているでしょう。


しかし、本当にそうでしょうか。
このフレーズを「言っていいんじゃないか?」と測ってから口にしているのではないでしょうか。

簡単にいうと、
社会人(成人)が使用する“我慢の限界” というフレーズの本気度は、子ども時代の “我慢” に勝っていないのではないか、ということです。

選んだ “我慢” の中で社会人が口にする “我慢の限界” は、逃げ場のない子ども時代の “我慢” にはかなわないのです。

社会人(成人)以降の人生において、“選んだ我慢” を子ども時代のレベルで我慢し続けることができれば、大きな達成につながるように思えるのです。


 





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