「あきらめ」は、「終わり」ではない

 

 
人は、「あきらめ」と付き合いながら生きています。
 
子どもの頃、買いたいものを買ってもらえず、あきらめる。
かけっこで1番になることを、あきらめる。
クラスで1番の身長になれないことを悟り、あきらめる。
 
中学や高校になっても、
成績優秀を、あきらめたり、
好きな人を、あきらめたり。
 
常にあきらめと付き合いながら、生きているのです。
 
 
しかし不思議と、日本社会は若者に “あきらめることを許しません”。
つまり、ずっと若者は夢をあきらめず生きていくように勧めるのです。
この逆はあまり聞くことがありません。
 
 
あきらめについて、世の中でいわれるフレーズがあります。
 
それは、
 
「夢をあきらめるな」
「あきらめないヤツは、負けない」
 
などです。
 
上記のようなフレーズはよく聞いても、“あきらめ” を勧めるフレーズは聞きません。
 
つまり、“あきらめさせないサイド” の人は、“あきらめること” が良くない、と考えているのです。
 
 
ほんとうに、“あきらめること” は良くないのでしょうか。
 
 
たとえば、おいしいパスタ屋を探している人がいます。
すると、インターネット上で大絶賛されているパスタ屋を見つけました。
その人の家から、電車でなんとか行ける場所にあるようです。
 
仕事終わりに行くにはきつい。
その人は、休みの日にそのパスタ屋に行くことにしました。
しかし、休みになって行ってみたら、その店はいきなり閉店していたのです。
 
この場合、おいしいパスタ屋を探していたその人は、閉店した店のパスタを食べることは決してできません。
周囲が思う以上に、本人は落ち込みました。
その店がなくなることは、強制的に “あきらめざるを得なかったからです。
 
この人は、閉店した店のパスタは “あきらめ” ました。
しかし、あくまでこの人が “あきらめ” たのは、閉店したパスタ屋のみです。
 
この人にとっては、「閉店したパスタ屋」という “イベント” のみが終わったわけです。
もともとの、「おいしいパスタ屋を探し出す」という “意欲” が終わったわけではないのです。
本人にこの “意欲” がありつづける限り、きっと閉店したパスタ屋とは違う種類の、おいしいパスタ屋がまた見つかるでしょう。
 
何かをあきらめたとしても、本質的な意欲がある限り、“次の何か” にめぐり合うように生きるのです。
 
 
この “あきらめ” が次の機会にめぐり合う、という話ですが。何かに似ていませんか?
 
そうです。恋愛です。
失恋すること(恋をあきらめること)があっても、二度と恋ができない人間になるわけではありません。
自然と、次の恋にむけて人は歩きだすのです。
 
 
だから、“あきらめること” は、決して不幸でも悪いことでもないのです。
“あきらめかどうか” なんて実は悩むことではない。ということです。
 
なぜなら、
本当にしたいこと” の “本質はなくならないから。
 
だから、何かをあきらめざるを得なかったとしても、それは目指した“イベント” が消えただけです。
 
本人に本質的意欲がある限り、次の目指すべき “イベント” に向けて行動がはじまります。
それも、自然に、無意識に、です。
 
目指すべき “イベント” が消えないなら、あきらめなければいい。と決めてしまう。
あるいは、“イベント” が消えそうなら、あきらめる。と決めてしまう。
シンプルです。
 
どちらにしても、自分の中の本質がのぞむ方向に進んでいくのです。
 
 
 
 
 
 
 

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