価値をめぐる、西欧社会と日本の根本的な差

 

 
あるベテラングラフィックデザイナーが、ある対談本で次のような趣旨のコメントをしていました。
 
 
「ピカソが描いた紙切れが何億円で売られている西欧社会は馬鹿げている。自分はデザイナーで良かった。」
 
 
というようなコメントです。
 
このコメントの背景は、膨大な人が仏のために手がけた曼荼羅図など、アジアには “無名” の傑作がたくさんあり、「ピカソ」など名前で価値をつり上げる西欧社会やアートはおかしい、というものです。
 
 
この趣旨のコメントを残したベテラングラフィックデザイナーは、アートよりデザインを優位におきたいのでしょう。
 
数十年携わったデザインを否定したくないのは当然ですし(サンクコスト)、ご自由に優劣をつけて頂ければと思います。
 
 
このコメントのポイントは、
 
デザインとアートの優劣はどうなのか、
このグラフィックデザイナーはアートからの影響がないのか、
 
などではありません。
 
 
このコメントのポイントは、
 
「紙切れに数億円の価値をつけた西欧社会と、それを否定する日本人」です。
 
 
現代の西欧社会は、ピカソの数十秒ほどで描かれたドローイングに、数億円の価値を見出しました。
それに対し、日本の現代のデザイナーは、その価値を馬鹿げている、と価値を否定しました。
 
もちろんこのデザイナーの言い分もわかります。
ピカソの一枚のドローイングは、“血と汗と涙に滲んだストーリー” は一切感じ取れない。
“血と汗と涙” の感じられない紙切れに、価値をつけるのはおかしい、と。
 
しかし。
ピカソのドローイングに数億円の価値がついたのは事実です。
 
この “事実” がなぜ起こったのか。
紙切れに数億円がついたストーリーは何なのか。
 
それらを考え理解しない限り、西欧社会の “現代の価値観” を理解できないということです。
 
西欧社会、というより世界では、すでに「紙切れに数億円を乗せられる」 “新しい価値” が流通しているのです。
 
とっくに、「目に見える相当の価値」だけを流通させる時代ではなくなったということです。
 
この流れを理解した上で、アートやデザインに携わらないと、常に「目に見える相当の価値」に縛られた制作をすることになってしまいます。
 
 
手紙は減っていき、書籍も減っていき、ゲーム機も減っていく。
ただし、内容の価値は減らずに流通していく。
 
そんな時代に、西欧人だけでなく、日本人も生きているのです。
 
 
 
 
 
 
 

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