「戦争画」は “政治” か、“アート” か

 

 
戦争をテーマにした作品は、しばしば議論を巻き起こします。
 
なぜなら、戦争を扱うことそのものが、“政治的” な強い主張を持ってしまうからです。
その主張は、鑑賞者の考え方を左右することもあります。
 
『戦争画』の中でも、戦争による残酷なシーンが描かれている場合は、特に賛否が分かれます。
 
「戦争の恐ろしさを知るべき」という賛成意見や、
「残酷な描写が精神的苦痛を与える」という反対意見、
 
があります。(ややお決まりの感はありますが…)
 
 
さて、このように、鑑賞者に是非を問う『戦争画』は世の中に必要なのでしょうか。
 
平和な世界を目指すために、残酷な人間の側面を知るべきか。
あるいは、精神的な苦痛を想起したり、逆に戦争を美化する可能性があるものは排除すべきか。
 
 
そもそも、『戦争画』の是非を問うこと “そのもの” が、的外れな議論ということに気づかなくてはいけません。
というのも、『戦争画』の是非は、「絵画」の枠を超え、“戦争の記録” の是非を問うているからです。
 
 
そして、『戦争画』だけでなく、あらゆるアート作品は、“記録” です。
 
作品は形を持ち、時間の経過に耐えます。
時間の経過に耐え続け、未来に “記録” した情報を伝えていくのです。
 
つまり、「戦争」を描こうとすることも、「故郷の街並み」を描こうとすることも、“記録” という意味で共通しています。
 
 
そしてなにより、『戦争画』という“表現そのもの” の是非を問うことが、実は最大の “政治的介入” となっています。
 
『戦争画』が強い主張を持ち、“政治的” であろうとなかろうと、表現は自由なのです。
それを、“政治的” あるいは“主張が強い” として排除しようとすることが、なにより “政治的” であることを、自覚すべきなのです。
 
 
 
 
 
 

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