アートを鑑賞する者に、宿命を突付けるアーティスト

 

 

アート作品は、目で見る作品が主です。

つまり、「作品を見る」という行為を通じて、鑑賞を行うわけです。

 

この必須の行為を際立たせるアーティストがいます。

それが、ヴォルフガング・ティルマンスさんです。

 

とくに「作品を見る」という行為を際立たせるのが、Jurys Inn』という作品。

 この写真作品は、その名のとおり、Jurys Innというホテルの一室の一角を写した作品です。

特別な部屋ではありません。

しかし、“ある誰かの部屋” であることが暗示されています。 

 

つまり、この作品を鑑賞するということは、同時に “ある誰かの部屋” をのぞき見したことになります。

鑑賞者は「作品を見る」という “当然の行為” をしたにもかかわらず、動揺してしまうのです。

 

ヴォルフガング・ティルマンスさんは、この作品について、

「鑑賞者は共犯者」になる。

と語っています。

 

ヴォルフガング・ティルマンスさんは作品をつくることで「禁断の場所を覗く準備」という「罪」を犯す。

鑑賞者は、準備された「禁断の場所を覗く」という「罪」を犯す。

 

ヴォルフガング・ティルマンスさんと鑑賞者は、共犯者になるのです。

このことが、作品を見る鑑賞者に対する動揺となっているのです。

 

 

そして、この作品により、鑑賞者は “一つの宿命” を突付けられます。

 

それは、

“鑑賞者は、永遠に作品を最初に見ることはできない”

という事実です。

 

つまり、作品を手掛け、作品を “最初に見る” のは ヴォルフガング・ティルマンスさんという作者であり、鑑賞者ではありません。

鑑賞者は、作品に対して “共犯者” にはなれても、“単独犯” にはなれない、ということです。

 

しかし、同時に作者であるヴォルフガング・ティルマンスさんも、この作品を世に出した時点で、誰かがその作品を見る宿命になります。

そのため作者本人も、作品に対して “共犯者” になれても、“単独犯” にはなれないのです。

 

ヴォルフガング・ティルマンスさんは、作者と鑑賞者という、絶対的につながりあう運命にしかないというジレンマを、みごとに表現しているのです。

 

 

 

 

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